<2018年5月の読書記録>

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)


ラニーへの共感とズーイへの憧憬。これに尽きる。

「フラニー」の章は、どちらかというとうわ滑り気味に読んでいたところで
(でも読み進めるのが苦になるところまではいかなかった)。
「ズーイ」の章、ページをめくる手が止まらなかった。

ラニーの話を聴くうちに、ああこれはわたしがずっと抱えている(そのことに気づいたのはこの5年くらい、たぶん)ものと、
近しいものの話をしてるんだろうなと。
美しくないもの、完全でないものの存在を、心のどこかでは認められないんだ。
自分自身について、もういい大人なんだけど、まったくもって子供だよなと思うことが日常的にままあって。
きっとそれはここに起因してるんだろうなぁ。
(そう考えられるだけの客観性があることが救いかもしれないし、
それでもこのお話がリアリティをもって迫ってくる程度には目を瞑って生きている)
(そして、いまこの具合でこの本に出会えたことをとても喜ばしいと思っている)

そしてその妹に、いまの自分のすべてをつかって話して聞かせるズーイには、
きっと自力でそこへたどり着いたんだろうと思うと、やはり憧憬の念を抱かざるをえないな。
…実際にこんなふうに横で話して聞かされたら、きっとうんざりしてしまうだろうけど。苦笑
それはともかくとしても、清濁併せ呑むってほんとうに憧れる。とかくこの世は生きづらい。

それとは別の話として、すごく、村上春樹的要素の強い文章だなぁとも思った。
それがこの本を手に取ったきっかけでもあるし、ここまで響いた一因だとは思う。


女ごころ (新潮文庫)

女ごころ (新潮文庫)

再読。
フラニーとズーイ』に打ちのめされた直後に一気に読んだんだけど、
あんまり客観的には読めず、他人ごととは思えないな…という感想。
「相手のためになれば」と思ってやったことが、相手にとっては地獄を見せるようなことだったとしたら。
それは結局自分のために、自分の都合で、自分が楽しむために、自分が楽になるためにやってるんじゃないかって、
主人公・メアリイの行動を見て感じてしまったんだけれど、いまはなんだか身につまされるような思い。
前回はどんなふうに読んだんだったかなぁ。


キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

サリンジャーという作家を知ってしまったので。
フラニーとズーイ』よりは客観的に読めたかなぁ…
ホールデンの思考や行動に、あぁわかる、わかるんだけどそれはやっちゃだめ、とハラハラさせられながら読みました。
そしてこうやって話せるようになってよかったなぁ…と。もちろん、かれのなかではまだ終わってないんだろうけど。


* * * * * * *


5月はまたよく遊んだなぁ。名古屋福岡横浜。その間にこっちでもライブ行ったし。
横浜がほんとにたのしくて。まぁ久しぶりの横浜で勝ったからってのも大きいんだけど。

でもまぁね、『フラニーとズーイ』の衝撃がね。だいぶ叩きのめされたね。がんばろうね…