Dreamin' Dawn

たいがいまぁまぁのポエム

<2021年2月の読書記録>

NHKの番組『100分で名著』を毎週録画予約している。真剣に見たり、場合によっては見なかったりもするけれど。
ご存知のかたも多いとは思うけれど、25分の番組×4回(1ヶ月)を通して、
1冊の本を指南役のゲストとともに伊集院光さんが読んでいく番組で。

www.nhk.or.jp

昨年末、12月に取り上げられた名著がこの本だった。(Twitterで話題になっていたらしいけれど、そのことはあとから知った)
慌ただしくて録画が溜まっていたのを、年末年始休暇になんとなく見ていたところ、
この月の先生(解説者)が気になっていた岸政彦さんだったうえに、
第2回のテーマ(「趣味という闘争」)がとても興味深くて、観るだけでは飽き足らず、はじめてこの番組のテキストを買った。

…こうして読んでみての感想を書こうとしても、興味深いなぁのひと言がまず出てくる。
読んでみて*1なお「興味深い」ということは、これからも考えるべき内容なのかなぁとも思っている。

ひとつ、これはこういうことなのかなぁと勝手な解釈をしてるところがあって。(語ります)
(余談、たぶんこの「語りたくなる」のがこの本の魅力なんだろうし、Twitterでバズった一因なのかもしれないな、と)
この本、そして原著では「稲妻の一撃」を否定しているけれど、わたしはどうもそれを信じたい気持ちを捨てられなくて。

「稲妻の一撃」とはなんなのか、そしてそれをなぜ否定するのか。ブルデューの定義、そして岸さんの解釈はこうだ。

すばらしい芸術や音楽との、突然の出会い。それは魂を震わすような、ドラマティックな瞬間です。
彼(ブルデュー)はこの出会いの瞬間、何か霊的な、偶然の、心と心とが直接ぶつかり合うような触れ合いを「稲妻の一撃」と言い換え、
そしてあっさりとそれを否定します。
(中略)
芸術作品に自然に出会うということそれ自体が幻想だというわけです。(P.20)

続けて、そう考える理由が書かれている。

芸術作品の素晴らしさを心から受容できるのも、その知識や態度、構えなどの出会いの前提となるものを家庭や学校から学んでいる、
言い換えれば芸術と出会うための「遺産」があるからだと言うのです。
(中略)
そもそも音楽を鑑賞するという習慣、態度、構え、性向といったものがまったくないと、ラジオから流れてくるものはただの音にしか感じられないでしょう。
音楽という芸術分野を鑑賞する態度や習慣や構えをまったく持たない状態では、
たとえラジオからたまたま素晴らしいピアノが流れてきても、「ウィントン・ケリーめっちゃいい!」とは思えないのです。(P.22)

ある芸術を受け取る素地がないと「これはよい」と反応できない、そしてその素地は教育水準と出身階層(つまり家庭や学校)に規定されている、
つまり、「素晴らしい芸術との出会い」は“お膳立てされた出会い”で、“純粋な出会いなどではまったくない”。(P.67)
そのことにはなるほどと唸らされるんだけれど、それを前提として感じたことがあって。

ある芸術を受け取る素地があって、それに反応することが規定されていたとして、
それに出会うタイミングはそれぞれなのではないかと思うし、
そのタイミングに「稲妻の一撃」を、つまりドラマティックな運命性を感じることはあるのではないかと思う。

言い換えると、ある芸術に出会う機会があったとして、それに反応するかどうかはそのひとの素地次第である。
とはいえ素地があっても、出会う機会があってはじめて反応することができるんじゃないかなぁ。

たとえば、わたしが音楽番組で聴いたポルノグラフィティの「オレ、天使」がどうも気になったのも、
雑誌の音楽コーナーで紹介されていた安藤裕子ねえやんのCDを聴いてみようと思って図書館に行ったのも、
pupaを知ったところで数日後に近くでライブの予定があるからと当日券を予約したのも、
「音楽番組を見る」「雑誌を読む」「図書館に行く」「ライブの情報を仕入れる」「当日券を取るために電話する」
という行為をする環境(習慣と言ってもいいかもしれない)があったからこそできたことで。

とはいえ、その日そのタイミングでそれらの行為をしていなければ、反応できなかった。
たとえば、風邪を引いていてその週の音楽番組を見ていなければ、
忙しくてその号の雑誌は流し読みになっていたとしたら、バンドの存在を知ったのがライブ翌日だったならば。

その機の巡り合わせ、タイミングについて「稲妻の一撃」を感じてしまう…のは、社会学的には夢みがちなのかなぁ。
(もっとも、原著を読めていないところでこれもただの感想でしかないんだけれど)

個人的には、そこに本書最後に岸さんが書く「自由」、「有限の規則から無限の行為を産出していくこと(P.98)」を感じてしまう。
その芸術に反応する素地があったところで、いつ出会うかは自分の行為次第、
だからこそ自ら行動を起こすことがわれわれに与えられた「自由」
じゃないかなぁ、と思った、思ってる。


それとは別の話として、岸さんが言うところの「他者の合理性」、これにも深く頷いてるところ。

すべての人の行為や判断には、たとえ私たちにとって簡単に理解できないもの、あるいはまったく受け入れられないようなものでさえ、
そこにはその人なりの理由や動機や根拠がある。つまりそれは、その人なりの合理性がある、ということなのです。(P.87)

一見すると非合理的な行為をしている人でも、その人が生きている世界の構造や文脈を丁寧に見てみると、相応の合理性があるのです。(P.88)

自分からすると合理性がなくても、その人(他者)にとっては合理性があるんだ。
たくさんの人と関わるなかで、すべての人に対してその人の「合理性」を丁寧に追って理解することは現実的に難しいけれど、
この考えかたは人間として社会的に生きる以上、頭に置いておきたい。

最後に余談ながらに、テキストを読み直してからもう一度番組を見直したところで、
テキストとは割と違う話をしているんだな、と思った。その違いはMCの伊集院さんから出てくるところが大きいんだろうけど。


* * * * * * *



あまりにも煮詰まって、弾丸で旅気分を味わってきた誕生日。
いつかいつかと思っていたところで、意外とすぐに叶えられるんだなぁと。
すっごくよかったので、またちがう季節に行きたいな。

*1:しかももう何度か読んでいる、この文章を書くために