Dreamin' Dawn

たいがいまぁまぁのポエム

<2022年1月の読書記録>

韓国で生まれ育った女性、キム・ジヨン氏の半生(自身のルーツから、1人の女児の母として暮らしている現在・33歳の生活まで)を、
彼女の主治医である精神科医のカルテという形で追っていくお話。
女性として生まれて、教育を受けて、社会に出て、結婚して、出産して、子育てをはじめて、
それぞれの場面で立ちはだかる"壁"が詳らかにされていく。

お隣の国のことで、そもそも小説という体ではあるんだけど、全然、他人ごとじゃない。
特に後半、ジヨン氏が社会に出てからの部分、日本で生まれ育ち働くわたし自身も、同じようなことを感じたことがある。
そして最後、精神科医(男性)自身の話になるパート、率直にぞっとしてしまった。

さらにはそこに続く、日本語読者に向けたあとがきにあったこの言葉が、重い。

日本の読者の方々にとっても、『82年生まれ、キム・ジヨン』が、自分をとりまく社会の構造や慣習を振り返り、声を上げるきっかけになってくれればと願っています。あなたの声を待っています。

さぁ、わたしは、どうしたらいいんだろう。

救いのように感じてしまったのが、ジヨン氏の母であるオ・ミスク氏の聡明さ。
その聡明さが鮮やかに描かれるがゆえに、それをもってしても叶わなかったことの重さが際立つんだけど。

それでも、彼女のように、その重さに屈せずに自らの能力を発揮することは諦めなくないし、
同時に、次の世代の重さをすこしでも減らすために考えることはやめたくない、な。


昨年7月に買ったエッセイ集(文庫版)、必死で食らいつくようにして読了。

手に取ったきっかけは、昨夏開かれていた長野での展覧会「10 Mame Kurogouchi」

nagano.art.museum


Mame Kurogouchi」というファッションブランドの10周年記念の展覧会、ミュージアムショップにて購入。
なぜなら、この本が当時最新のコレクション(21SS)にインスピレーションを与えてくれたそうで。

www.mamekurogouchi.com


「食らいつくように」読むことになった理由は明確で。
この本で取り上げられるものの固有名詞(絵画、音楽、写真、土地など)が、あまりにも知らないものばかりだから。。。
そこへの想像を巡らせるものの、それはときにかなり根気のいる作業で。

とはいえ終始うつくしい文章と、ときおり出てくる既知の「窓」
「窓」とかっこ書きにするのは、この言葉であなたが思い浮かべたであろう「窓」以外のものも、この本では「窓」として登場するから)
そこに魅了され、どうしても読みたくって、食らいつくようにして読了。読み通せてよかった。


「推し」という言葉がずいぶんと一般的になった昨今。
わたし自身、好きなミュージシャンやサッカー選手や(元)アイドルや作家や芸術家はいるけれど、
唯一、自分の「推し」だと思ってるのは(元)アイドルくらいかもしれない。

たとえばいちばん長く、それこそ主人公のような年齢(高校生)のころ、いやそれ以前からすきなアーティスト(つまりポルノグラフィティ)のことを、
「推し」と呼ぶのはなんだか憚られていて。

なぜなら「推し」という言葉に感じられる、気持ちの純度の高さ、ある意味で盲目的な、盲信的な姿勢を
いまのわたしはかれらに対してもっていないからかもしれないなぁと思いつつ。
(余談、3人時代のかれらにはその姿勢をもって接していた自覚があるけれど、いまはない)

とはいえ、この本は過去にもっていたときのことを強烈に思い出させてくれたし、
いまのわたしが一言一句共感できる言葉もあった。

推すことはあたしの生きる手立てだった。業だった。

それは、この会場の熱、波打つ青色の光、あたしたちの呼吸を吸いこんだ推しがこの瞬間に、新たにつくり出し、赤く塗った唇から奏でている歌だった。あたしは初めてこの歌を聴いたと思った。


そう考えると、わたし、いまも、ポルノのこと、少なからず「推してる」のかもしれない。

そしてだからこそ、途中からは主人公の気持ちの純度の高さに眩暈がしそうになった。
でもそれを吹っ切って夢中で読んでしまった。それだけの力がある文章だった。読んでよかった。