Dreamin' Dawn

たいがいまぁまぁのポエム

<2021年10月の読書記録>


冒頭で取り上げられていた、小学生の「国語(こくご)」の教科書に書かれている「読みかた」の指南。
"教科書的な"と言われるとあまりよい意味を思い浮かべない場面も多いけれど、
何十年ぶりにこうして読むと、すごく参考になる。
…と、思っていたところだったんだけれど。


正直に言う、最後まで読んだところで、結構混乱している。有り体にいえば、読めた気がしていない。
うーん、先述の「"教科書的な"読み方"」について、著者はやはりよい意味では使っていないのだろうか。

とはいえ著者だって、この本の冒頭でこう言っている。

(「国語」の教科書に書いてある「読み方」をいくつか紹介したうえで)
いいことをいっているな、と思います。正直にいって、わたしだって、こんなふうに読んでます。まあ、そうじゃないときもあるけど、だいたいはこう。

しかし、この本の山場として書かれている章には、こういったことも書かれている。(要約します)
「『"教科書的な"読み方』を指南する文章の『声』はだれの『声』なのか」という問いと、
それに対しての「これこそが『社会』そのものが発する『声』ではないのか」という答え。

この部分について、まぁわたしの読みかたがちょっと極端かもしれないけれど、
こういう「"教科書的な"読み方」をしなさいと教育されてきたこと、それ自体が「社会」からの洗脳、とでもいわんばかりに聞こえる。


わたし個人の経験として、という前置きをしたうえで。
冒頭で書いたとおり、他人が書いた文章を読む方法(それこそ書かれた「声」を聴きとる方法)して、
まさにこの「"教科書的な"読み方」を理想としてきたんだよな、と思っていて。

もちろん「社会」で生きている以上、この「"教科書的な"読み方」を大いに活用している自覚はあるし、
それができたことで叶ってきたこともたくさんある。
(たとえば、それこそ小学生のころに「国語」のテストで満点を取ったことだってそう)

けれども、個人として読む文章のなかにある「声」(文学の世界でいわれるところの"ヴォイス")を聴くための読み、
もっというと「私的な読書」において、
「社会」にいわれた方法で、「社会」に洗脳された方法で聴いてきたつもりはなくって。

なんといえばいいのかな…もっと個人的な、自分なりの読みかたをしてきたつもりで。
(その読みかたは、たとえば新藤さんとか、江國さんとか、村上春樹とか、
もしくはこれまで敬愛してきた音楽家や、接してきた友人のみなさまから教わったつもりでいる)
ただ、それを言葉にすると、ここに載っている「"教科書的な"読み方」と重なる部分が多くて。

それは「社会」からの洗脳なのかな…そんなつもりはなかったんだけどな……その矛盾に戸惑っている。
…ここまでうまく書けた自信がないけれど。

もしかしたら、この「読めた気がしない」という経験が、この本の価値なのかもしれない。現時点での、わたしにとっては。


【2021/12/19 追記】

これだ。と思った記事を読んだので、いつかの自分のために追記。

pha:本を読む目的は人によってそれぞれだけど、そのときどきによって「社会で頑張るための読書」と「社会に左右されないための読書」、両方の読書を使い分けられたらいいんじゃないでしょうか。

ここで言及されている後者の「社会に左右されないための読書」、これが上で書いた「私的な読書」という言葉で表したかったことで。

「私的な読書」までも「"教科書的な"、社会の『声』に言われた読み方」で読むことを理想としていたということを、
今回この本に今回自覚させられたことで、
わたしが考える「私的な読書」を「社会に左右されないための読書」であることを否定された、
いわば「社会で頑張るための読書」だと決めつけられた気持ちになったんだよなぁ。

言い換えると、「『社会』に左右されないための読書」のつもりが、
「『社会』に指南された読みかた」で読んでいたと言われたような気がしているし、
それって結局「『社会』に迎合するための読書」になってるんじゃない?って言われたように受け取ってしまっている。

だれになんと言われようと、そのつもりはないから。
だからこそ戸惑っているし、咀嚼しきれないし。
そのこと自体を悪いことだとはおもってないけれど。



通勤電車が止まって閉じ込められ、たまたまKindleでセールやってたので購入。愉快に読んでいたところで。

最後の章にて、他人(まさに「自分以外の人間」)と暮らすことの意味を、重みを差し出されるなど。
「突きつけられる」ほど尖った感じはないんだけれど、さっと提示されたような気持ち。


* * * * * * *


いっこだけ、まったく10月の話ではなく、今日の気づきをメモしておくという、
このなんでもあり感。
なお、完全に自分語りです。

ikaw.me

坂本美雨さんのInstagramからなんとなく飛んだインタビューページ。
今日これを読んで気づいた、わたし、美雨さんから思ってた以上に影響を受けているみたい。

———娘さんも含めて、身近な人たちとコミュニケーションをとっていく中で大切にしていることはありますか?

愛情表現をストレートにすることです。好きな気持ちは最大限ちゃんと伝えることは躊躇わないようにしています。


他人からどう見えているかはわからないけれど、自分の感覚として。
わたしがすきなひとに「すきだ」と言うことを躊躇しなくなったのって、たぶん美雨さんの音楽が明るくなった時期と一致してて。
(それは実生活で目の前にいるひとに対してだけでなく、
たとえばすきなサッカー選手に対して、こういうところやもしくはファンレターで「すきです」と書くことも含め)

それでいうと、同時期に聴いてたpupaのこの歌詞もそう。作詞は原田知世さん。

Anywhere

Anywhere

  • pupa
  • J-Pop
  • ¥255

悲しみは胸に 小さく砕いて しまっておこう心の奥に
分け合うとしたら ほんの一瞬でも笑顔になれる喜びがいい
pupa「Anywhere」

そっか、ただ音楽がすきなだけじゃなくって、人間性の面からも影響を受けてたんだな…って気づいた、っていう、まぁそれだけの話なんですが。


というわけで、10月はすきな気持ちに導かれて2年弱ぶりのだいすき大阪(日帰り)でした